自分事として考える〜哲学チックなあれやこれ〜

こんにちは

マナビツナグヒトのみこりんです。

世の中、小さなものから大きなものまで、様々な社会問題があります。

それを自分事として見るのか、他人事として見るのかで、

自分の行動が変わってきます。

行動が変わるということは、自分自身も変わり、自分を取り巻く社会も変わるということ。

でも他人事として捉えると、社会は一部を除いて、自分とは無関係。

関係ないことには関心はいかないし、もちろん行動もしないから、自分も周りも何も変わりません。

そういうことを考える機会がありました。

事例として、バニラAirの車いす使用者への搭乗拒否を使って、

この件をどう捉えるか議論し合いました。

多様な味方から様々な意見は出ましたが、

一つの観点から見た時の捉え方にショックを受けました。

それは、「障害者だから、〜するべきである」という捉え方。

ここには、障害者と健常者という反する立場があります。

先の捉え方は、健常者から見たものになります。

しかし、健常者が得ることができる環境を障害者は得ることができないと

事実を捉え直した時に、

そこにあるのは差別であり、人権の軽視となります。

この点について論じることが目的ではないので、この話は以上とします。

ただし、反する立場の者のどちらかが不利益を被る事実は、

誰にとっても平等であるとは言えません。

こういう場合、易は力のある方へ傾きます。

つまり、力がない立場の者は、同じ人間として平等を認められていながらも、

実際は不平等を被るという構図ができ上がってしまうのです。

他人事・・・という言葉には、自分とは無関係なことという意味が含まれると思います。

無関係だから関心を持つ必要がない。

ですから、関心の平等と不平等という点からも、自分事と他人事というのも反する立場であると言えます。

お、なんかややこしくなってきましたね。

だからシンプルに言い直しましょう。

自分に関心があるのと同じように、他人のことにも関心を持ちましょうということです。

即ち相手の立場になって考えてみるということにもなります。

自分とは違う他者ではあっても、自分がその立場であったらどう感じるか、どうあればよいと思えるか、

そういうところから物事を捉え直してみるとよいのではないでしょうか。

哲学者・教育学者の苫野一徳さんが、「自由の相互承認」という言葉を

よくお使いになっています。

これは、

「お互いに対等で自由な存在であることを認め合い、そのようなルールで社会を作っていくこと」。

多様な人がいればそれだけ多様な意見があるので、絶対的な正解はないでしょう。

それでも互いがそれなりに了解できる共通の認識をつくることができれば、

誰にとっても自分事の認識になるのではないかと思いました。

あらら・・・・?

予定よりもかなり哲学チックな内容になってしまいました。


私には、自分事として考え、解決の助けをしたいと考えている社会問題があります。

このブログでも何度も取り上げた、

「児童虐待」「子どもの貧困」「未来への希望格差」などです。

それらについては、これからもどうするか考えて考えて、行動につなげたいと思っています。

読んでくださり、ありがとうございました。