こんにちは
マナビツナグヒトのみこりんです。
1994年に放映されたドラマの主人公(安達祐実さん)の決め台詞
「同情するなら金をくれ」
は、当時センセーショナルな話題となりました。
私はドラマを見ていませんが、この台詞には思い出があります。
今から、7.8年ほど前のことです。
その頃、DV支援に関わる仕事をしていました。
研修のため参加した支援者のイベントで会った方に言われたのです。
その方からすれば、支援のプロでもない私が、
研修で参加していたことに我慢がならなかったのでしょう。
「そんなことにかける金があるなら私にください。」
そう真顔で言われました。
さすがに、驚いたいうかショックというか・・・・・。
その後、すっかり忘れていたことです。
でも、年末から年始にかけて、
報道される事件や事故等の話題に
「かわいそう・・・」と呟く声を聴いた時に
そのことを思い出しました。
つい他人の不幸を見て「かわいそう・・・」と言ってしまうことがあります。
特に深い意味はなく、ただ胸が痛む、その気持ちを表す時に使うことが多いと思います。
しかしこの言葉には、
「同上の思いがわき起こるさま」「不憫なさま」という意味があります。
言われた方からすると、不快な気持ちになることもあるようです。
たしかに、「同情」や「不憫」だと、
対等の関係ではなく、ちょっと下に見る感じもします。
加えて、そこに他人事という空気も感じてしまいます。
例えば、有名人の闘病の話題に対し、
「かわいそう」と哀れに感じることがあると思います。
でも、それが身近な相手だとしたら、
「かわいそう」というよりも、「なんとかしないと!」と
相手のために奔走すると思うのです。
つまり、これが他人事か自分事かの違いだと思います。
他人事であれば、自分は見て感想を述べるだけです。
もしかしたら、悲しくなって涙も流すかもしれません。
しかし、自分事であればそんなことを嘆く前に、
できることを必死でやるでしょう。
先にあげた方は、
私の姿勢を他人事として受け止めたのかもしれません。
必死に支援のために動いているその方にとって、
そんな他人事の姿勢は意味がないと捉えられたのかもしれません。
そういうことも含めて、ショッキングな言葉を思い返しました。
社会には、解決困難な問題がいっぱいあります。
自分があがいてもどうしようもない、
いわゆる影響の輪の外の問題に苦しくなることもあります。
何もできないから、というのは他人事の姿勢になるのではないでしょうか。
どうしようもない問題だけど、
本気で「なんとかしたい」と思うならば、
自分にできることを探したり、小さなことでも行動したり
するんだと思います。
同じ問題に対しても、
「他人」事、「自分」事、どちらに捉えるかは、
その人の選択に委ねられていると思います。
私は、ずっと影響の輪の外から傍観してきました。
でも、様々な現状に触れるにつけ、
「何かしよう」とやっと思えるようになりました。
それが今年の
行動目標⑺社会問題の解決に向けアクションを起こそう、というものにつながっています。
そう思えばきっと何かできます。
自分の意識を書き換え、行動する1年にしたい、
そう思うのです。
読んでくださりありがとうございました。